アイデンティティと言うと堅苦しいのだけど、自分を構成する要素と言うか、私が育った環境で身につけたものとでも言えばいいのかなぁ
自分が生きて行く上での信念とか、ここは譲れないぜ!みたいな?
そんなものについて最近考えます
義実家の件で、ここ1年くらいの間色々あった訳だけど、
良くも悪くも「自分」と「他人」、「ウチ」と「ヨソ」の違いがハッキリしたなと思うんだよね
今まで、そこまで深く他者と関わって来なかったってことなのかも知れないけど、
年齢とか性別とか関係なく、相容れない人とはどうやったって無理なんだよねぇ
ってことを改めて実感しました
宗教観というと大袈裟だけど、やっぱり私の構成要素として「キリスト教」
と言うのはかなりのウエイトを占めているんだなというのが良く分かりました
一応長男の嫁として、義父の葬儀から義実家の辺りの風習に従ってお供えのものを用意したりしたけど、結局「死生観」が違うんだわよね
そりゃ身近な人が亡くなれば悲しいし、目に見える姿としてはもう会えないんだと言う喪失感もあるし
お仏壇に色々供えたりする気持ちも分かるんだけれども
でも………
ってなっちゃうこの違和感はもう一生拭えないんだと思います
信じてない人がお茶やお水を替えてもあんまり意味無いんじゃないかなぁ
って思いながら仏壇やお墓周りを掃除したりしていた訳ですよ
もちろん汚いより、綺麗な方がいいですしね
たださ~、見た目、形だけを整えることにどれだけ意味があるのか?
みたいなモヤモヤはありましたよね
今回、ハッキリと私達夫婦は家督を継がないことになりました
心底ホッとしたと言うのが正直なところです
実家を守ることとお墓を守ることって若干違う気がしてて
私は、義実家のお墓を守ることは出来ないなと……(心情的にね)
お寺のお墓に入る
と言うのがちょっと現実味を帯びてきた時の、なんとも言えない抵抗感ってのは
上手く表現出来ないけど、とにかく「嫌」って思いましたよね
あまりこれまで、意識したことが無かったし、真面目に考えたことも無かったけど
自分の中にもそういう気持ちがあるんだと、気づける良い機会だったのかも知れません
ちなみに夫は、別にどこでも良いと言っています
教会のお墓でも構わないんだそうです
私がお参りに行きやすいのが優先なんだとか
これまたアッサリしてますよねぇ
まぁ私も基本的にはどこでもいいんですけども
最近良く聞く樹木葬とかが宗教色薄くて無難なのかもなぁなんて思ったり
まぁ実際にどうするかはまだ分かりませんが、自分のアイデンティティの様なものを少し実感した出来事でした
ではまた次回(・ω・)ノシ
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